希望なき社会へと、日本は舵をきろうとしている。

もしかすると2009年11月13日は、日本という国にとってものすごく大きなターニングポイントとなったのかもしれない。

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子供のころ、子供向け雑誌の多くは科学的な記事を載せていた。「21世紀はこうなる」という未来予想図があふれていた。もちろんそこには、環境に対する配慮が不十分であったりなどの不完全さ・不備はあったものの、明るい未来、希望に満ちた社会がかなり具体的な姿で描かれていて、私たちは誰でも、いつか来る未来の社会に夢を抱くことができた。

そして21世紀。当時描かれていた未来予想図と同じではないものの、誰もが通信機器を持ち、一家に一台どころではない数のコンピュータがありそれらがネットワークでつながっている社会が(少なくとも先進国では)実現している。

その原動力は、「科学が人を幸せにする」という信念のようなものだったのではないだろうか。科学者が研究をするモチベーションは、もちろん個人的な好奇心・探究心がベースであろうし、名誉欲や功名心の様なものもあるだろう。しかし、それだけでないと思うのだ。

そして、科学者であれば誰でもわかっている。目に見えた成果を上げ直接的に人の暮らしを便利にする研究の裏や下には、その数十倍数百倍の、成果の見えにくい、直接的には便利さに寄与しないかに見える地味な基礎研究があることを。そして、その基礎研究は、直接利益に結び付かないからこそ、誰かが支えなければいけないのだということを。

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小泉政権で出されたお題目のひとつに「米百俵」というのがあった。長期政権の途中でどこかへ消えてしまった上にその後の3代の総理の間は完全に忘れ去られていた。

今こそこの「米百俵」が必要なんじゃないかな。資源のない国ニッポンが先進国でいられたのは教育や研究にお金を優先的に注ぎ込んだからだし、今の産業を支えている技術のうちの少なくない部分が、始めたころは何の役にたつのか明確ではないし短期的なリターンもない地道な基礎研究から発展してきたもののはず。それは、今すぐには何も生み出さないように見えるかもしれないけど、先へ進む土台となり、いずれ大きなリターンを生み出すためには絶対に必要なものなのだ。

つまり、短期的なリターンが目に見える研究なんていうのは、もうすでに出来てしまった・終わってしまった技術の延長であって、そんなものは今更国がお金を出して研究する必要があるものじゃない(それこそそこから直接的な利益を得る企業なり民間団体なりがやること)。公的な資金で支えて研究する必要があるものは、「短期的なリターンが目に見えない」これからの技術なわけで。そこにかかる経費を「目に見えるリターンがない」という理由で無駄であると断じるのは、技術とか研究とかがなんであるかを根本的に理解していない、としか思えない、ものすごく愚かなこと。

それを、日本はやろうとしている。

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ちなみにだが、私個人は、リターンなんてなくても、それでも研究というものは可能な限りの予算を費やしてすべきだと思う。これは多分に私個人が、「わかったこと」がひとつでも増えるそのこと自体が最高のリターンだと考える、というもしかしたらかなり特殊な価値観の持ち主だからなのだろうけど。

でも、多分、科学って突き詰めるとそういうものなんじゃないのかなぁ。むしろリターンを産む産業技術への応用みたいなことのほうが枝葉なんであって。