猫嫌いということ。

(誤解する人はいないと思うが、私は多分超がつくくらいの猫好きであり、タイトルは私のことではない)


朝日新聞に「百年読書会」というコーナーがある。毎月一冊を決めてその本を読んだ感想を投稿する、というもので、それが今月は内田百輭の「ノラや」だったわけ。ちなみに私は未読ですが、かわいがっていた猫がいなくなって悲しんでいる、という系のお話らしい。

で。これがまたしょっぱなから酷い。どう酷いかというと、「なんで猫なんかをそんなにかわいがるのか理解できない」とか「猫を好きな気持ちなど理解したくもない」とか「作者に全く感情移入できない」とか「犬の話ならよかったのに」とか、はては「なんでこの本が選ばれたのか理解不能」とか、そういう「猫嫌い」とか「犬派」とかいう皆様のご意見。

いやー、「だったら読まなきゃいいんじゃないの」と思う、よね、普通。誰もあなたを無理やり押さえつけて強引に目を開かせて「読め」と強要したわけでもないのに。

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なんか思うのは、猫嫌いの人たちというのは、単に猫が嫌いであるというだけでなく、猫を好きな人を不快にさせることを楽しんでいるのではないだろうか、ということ。
(他人が猫好きであることが「許容できない」というか、猫が好かれていることが「許せない」というか、とにかくそんなような理由で「猫なんかを好きな人は不快な思いをすればいい」というような感じ?)

実際の話、犬については「苦手」という人はいても(私もこれ・ちなみに「ほえられやすい」というのが理由)、「犬嫌い」という人にはめったにお目にかかれないのに対して、「猫嫌い」の話は実によく聞く。近所の野良猫をエアガンで撃ったとか、毒餌しかけたとかいう話を、こっちが猫好きであることを知っているくせにわざわざ嬉々として話す人もいる。

「心の冷たい人」「動物に愛情を注げない人」みたいに思われるのが嫌で「犬嫌い」とは言いにくいけど、「猫嫌い」を表明することのハードルはそれに比べると低いし、「猫は人になつかない」とか「不気味」とか「我儘」とか猫嫌いを正当化する理屈(いや全然正当化できてないんだけど、彼らの中ではこれらは「猫を嫌いになる正当な理由」たりうるらしい)、さらには「猫嫌い自慢」みたいなものまであるようだ。

(ネットだと猫好きのほうが声が大きいのは、ある意味これに対する反発もあるんじゃないだろうか、とふと思う)

時々聞く話として、たとえば魚嫌いの人が、魚をおいしそうに食べている人の前でわざわざ「私は魚が嫌いだ」とか「あんなものを食べるなんて理解できない」とか「魚を喜んで食べるなんて理解したくもない」とか言ったら、普通は周りの誰かが咎めるし、そういう人とは以後のおつきあいを考えさせてもらいたい、と考えても不思議ではない。非常にマナー違反というか、失礼極まりない態度であると常識的な人ならば考えるだろう。

構図としては全く同じなのに、対象となるものが食べ物ではなく猫ならばなぜ許容されると思うのだろうか。

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そもそも文学作品なんていうのは、文字通りのお話として受け取る必要なんてないわけで。猫が嫌いで理解できないんだったら、それを犬とか子供とか孫とかに置き換えてみるとか、いろいろと想像を働かせることができるはず(実際に、「猫嫌いだから最初はとっつけなかったが、子供や孫とおきかえたらよく理解できた。いとおしいものとの惜別の情は対象がなんであれ同じ」というような感想もあった)、それさえせずに、なにがなんでも「自分は猫嫌いだから理解できない、したくもない」ってねぇ。

前半にも書いたけど、だったら読まなきゃいいのに、わざわざ読んで、それだけじゃなくて「猫嫌い」「理解(できない、ならまだしも)したくもない」という感想を投稿する、という行動が、一体全体いかなるモチベーションによって支えられているのかということが疑問。私はそんなネガティブな行動に使うエネルギーは勿体ないので、せいぜいがブログに書くくらいのことしかしない。

(もしかして、「猫嫌い」や「猫がテーマの文学作品など読むに値しない」という意見を新聞に投稿することは「全然ネガティブでない」行動なのかもしれない、猫嫌いにとっては。そこまでして「猫嫌い」の旗色を鮮明にすることに、どういう意味があるのかわからないが)

やっぱ猫嫌いは人間歪んでるというか、猫好きな人より人としてなんか欠けているんだろうな、と思った次第。