続・宮廷女官若㬢〜輪廻の恋 についてのちょっと思ったこと。

ええといまさらですが、張曉と心怡の関係について。

張曉が心怡を「お姫様(公主)」と呼び、
心怡が張曉を「子ブタ(猪头)」と呼ぶ

そんな関係が、ふつうの友情じゃないとあたしは思うんです。
挫折を知らずに育ってきて、他人が自分に対してよくしてくれることを当たり前だとナチュラルに思っている人と、そういう人が自分に対して特別に示してくれる好意をうれしいと思い、迷惑をかけられても頼られているのだと感じてしまう人、という感じ。確かに心怡にとっては、張曉は特別な親友で、一番大事な友達なのだろうと思います。ただしその関係においては、主導権を握るのは常に心怡だった。そして、それを許容することが張曉には可能だったからこそ、二人の間には友情が成立していたのではないかと思うんです。

実際、心怡が帰国しても、張曉以外の友人とやらに会っている様子が皆無。まあドラマだからそういう部分は省いたとも考えられますが、長く海外生活していた人が帰国したら友達が集まって内輪のパーティーくらいはするだろうしそういう描写が皆無というのはやっぱり心怡には張曉以外の友人っていなかったんじゃないかと思うのです。

そういえば張曉のほうにも友人っていませんね。まあ同僚の一人とはちょっとは仲いいみたいだし、元カレの黄棣とは不思議な友情で結ばれてる感じではありますが。

そして、心怡の恋人が康司翰だと知った時に、張曉は迷うことなく恋より友情を選んだ。それは、心怡と張曉の関係において、主導権を握っているのが心怡だから、その心怡を失うことが張曉にとっては耐えられないことだったから。つまり、そういう、ハタからみて上下関係であるような友情だけれども、それに対する依存、失いたくない気持ちは、立場が下である張曉のほうがより強く持っているもの、だと思うんですよ。

なんかそこが私はとてもとてもいやでした。心怡がお嬢様であるにしても、もうちょっと対等の女の友情として描くようなストーリーにできなかったのかな、と。そうだとしても司翰がなんらかの理由で心怡を選ばざるを得ない、張曉が身を引かざるを得ないようにはできたはずだと思うんですけどね。

多分これ原作者とか脚本書いた人がそこまで考えていたのかどうかわからないです。確か仙剣3で景天も雪見のことを猪头って呼んでいたような気がするし、中国語ネイティブにとっては特段悪い意味のあだ名でもないのかもしれない。でも、やっぱり、この二人の呼び名から透けて見える二人の力関係っていうものが、私にはものすごくムナクソ悪いものに思えるのです。